2021年7月31日土曜日

普通の車だけどキャンパバン

ふらりと放浪の旅にでると・・車の中で 私は寝て 調理をして食べて・・と まるで自宅の様に過ごす。

ってことは 食料をもって歩く事になるので どうしても 冷蔵庫が必要。
なので 小さな車用冷蔵庫をゲット!

すごい事にこの冷蔵庫 温度設定も可能!
って事で 家電冷蔵庫の様に 摂氏4度ぐらいでいいべ~~と思いきや・・車のエンジンを止めると 電気停止になるので 一気に12度ぐらいに上がってしまう・・。
そりゃ~そうだよな~~ 車の中は暖かくしてあるし・・いくら 冷蔵庫とて 電気が停止すれば・・冷蔵庫の役目を果たさず ただの箱。

そこで わたしゃ~考えた・・。
温度設定は零下20度までできる。
そこまでしたら 凍ってしまうだろう・・と思ったが・・そうではないのだ・・。
ちんたらと 放浪している私は あちこちで車を停める・・つまり 冷蔵庫への電気送信停止状態に常になるので・・それがちょうどいいというのを発見した・・。

数時間車を走らせておくと・・いい具合に中が冷える・・でも 凍ってはいない・・。
そのまま 1時間ぐらいエンジン停止のまま・・つまり 電気無しでも しっかり箱の中は冷えている・・。

って事で 5時間とか連続で走らない限り・・零下10度ぐらいに設定していたら ちょうどいい具合だった。

車の中に板をおいて そこが テーブルであり・・調理場でもある。
絶対に必要なのは ハサミ・・切れるナイフ これらがあると ものすごく便利! 絶対に欠かせない ツールである。

そして この私の水入れ。 いろんな水入れを買ったがこれが一番!
サイズ的に大きすぎず・・小さすぎず・・。 大きすぎると 重いだけで無駄な水を運んでいるだけ。 小さすぎると いちいち水補給が大変。
そして 口がでかく シンプルにできているので 洗うのにも便利且つ 不潔にならなくて 済む。

小さい取っ手がついているので いろんな物を運ぶ時も指一本に引っ掛ければ 持ち運び簡単。 
何より・・絶対に! 一滴も水が漏れない! という優れ物なのだ!

あたしゃ~ 自分の車をもう10年以上も使っているのに・・今回初めて発見した事がある。
なんと! シガレットライター つまり 電源が 車の後部座席の後ろについているのだ!
今度購入した 車の冷蔵庫は シガレットライターから電源を取るのだけど・・そんなの 車の運転席のところから コードを引っ張ってくるとなると 届くのかな~~? と 心配だった・・。
が! この電源が 後部座席の後ろに設けてあるなんて! この車を作った人は すごい! と感心したのだった。

私は生涯ボロで 古い車しか持った事がない・・・。
ってことで 最新のビンビカ車の事はよく知らない・・。

って事で またまた ビックリしたのは 私の車にも USB電源があったのだ!
ま~ 今日び そんなの当たり前でしょう! と 若者は言うかもしれないけど・・私みたいな貧乏生活をして 最新の車に接してないと・・無いのが当たり前の世代なのだ。

そして これも 今度の旅で このUSB電源の存在を知る事になる。
他の電源は全部 ふさがっていて・・ もう一つ ブルーツースイヤホン それも18時間バッテリー持続ってやつをゲットしたので・・早速充電! という時にこの電源をゲットして 最高に幸せ!

普通の人の言う 運転席の電源は いろんな物でもうふさがっているのだ・・。
後部座席の後ろの電源の他に運転席には 二つもシガレットライター電源があるのに・・。
一つはスマホ充電用(これも USBを突っ込むのが沢山あるのを接続すれば 色々他にも充電できるのだけど・・)

もう一つのシガレットライター電源は 電源差し込みの機械を突っ込んでいるので ちょっとした物はここに 突っ込めばいける。

ラップトップも スマホでテザリングすれば ネットにもつなげて・・ここで電源を取れば 永遠にネットが楽しめる。

先日買った 肩揉み機械もここに突っ込めるのだ。

調理はガスバーナーがあるので それで何でもできる。

後部座席を一つ取り外して そこに板を渡してマットレスを敷けばベッドになる。
トイレは ありとあらゆる所に公衆トイレがあるので 安心。

ってことで 私の車は
キャンバーバンではないけど・・ほとんど同じ役目をはたしてくれるのだ。

 

ふらり放浪

小さな 小さな町 何にもなくて・・人もあまり見えなくて・・ 数件の人家があるかな・・って程度。

プラプラと歩いていたら 建物の向こうにあるサイロのような物に 絵が描いてある。
オーストラリアでも同じような物を見たが・・こんな小さな町にでもあるんだ~~・・びっくり・・。

ってか こんなにでかいのを描くには 相当の根性が必要だべなぁ~~

車で どんどん 端っこに行ってみる。
人っ子一人いず・・なんだか さみしくて・・ちょっとビビる・・。
でも とりあえず 海が見えるまで・・と 細い道路のドンずまりまで進む。

寒い海風を受けて 深呼吸して・・じゃ~帰るべ~~と思っていたら なんだか茶色い塊が・・。
よ~~く目を凝らしてみると・・なんと 全部アザラシではないか!
そして アザラシと思ってみると・・なんだか その辺の茶色の固まりは全部あざらし・・ギョッとしてしまう。
向こうの ずっと先まで びっしりとアザラシさん達が休憩をしていた・・。

宿の外の道路沿いにあった バス停。
こんなかわいいバス停 誰が作るのだろう・・・

名も知れない ただの海岸
せっせと歩いて たどり着いた土手を超えたら・・海だった。
人っ子一人いず・・。
美しすぎる・・・

これも 歩いていたら・・公園っぽいところがあったので・・一休み・・とどんどん入って行ったら・・美しい教会。
これって有名なんだろうか・・?
こんなのが そこここにあって・・あまり 有名でもないのかもしれない。
それでも すごくきれいだ・・。

どでかい壁画で 迫力ある・・。
その辺の街角だけど・・しばし立ち止まって・・見入ってしまった・・。

名もなき 小さな町にあった・・。
よ~く見ると 本当に手の込んだ物だ。
こんなにすごい物を なんで もっとたくさんの人たちの目に付く所に置かないのだろうか・・?
ひっそりと・・誰の目にも止まらずに・・ただ私だけの目を楽しましてくれた。

 

青空に残るる月の白さかな

私のキャビンの外にいる 釣り人は 早朝で零下だというのに 平然といつも 釣りをしている。

今日は 向こうに見える 白く残っている月を釣っているようにも見える。

母親が女学生の時に詠んだ句で 優秀賞をもらったという句の事を思い出した。

”青空に残るる月の白さかな”

やっぱ いい句だ~・・・

 

2021年7月26日月曜日

今日のDunidenの空

今朝 空を見上げると とても暗かった・・。

宿に戻って また 空を見上げると 燃えていた。

 

2021年7月23日金曜日

放浪



チンタラとあてもなく 農場道を走っていると 牛さん大移動に遭遇


今夜はモーターキャンプで寝ます。

今夜から明日の明け方までにかけて 最低気温はマイナス3度
生き残れますように


2021年7月19日月曜日

あたし 日本で住むならここ

 釜ヶ崎 大阪出身者は 私が ここに宿を構えると言うと 「やめとけ! 危険やで〜!」とみんな口を揃えて言う。

肩の力が抜ける。 何も心配しないで住める所と言える。 お金はあまりなくても 食べれるし・・泊まれる。

長期滞在宿として 日本に行けば絶対ここを起点としてウロウロする。 

今はコロナでちょっと様子は変わったが・・コロナ前は 海外からくる 貧乏若者旅行者の滞在するバックパッカーが軒並みあった。 今もあって欲しい。 

激安なのに・・清潔で 設備も抜群、ネット環境抜群。 

大阪のエキサイティングな場所が すべて 徒歩圏内にある・・。

最高の所と確信する。

2021年7月12日月曜日

”小唄寿司”駅弁


これは 青森県の駅弁 もとは八戸からなんだろうけど・・ 私は これを 52年前に売っていた。

この写真は ネットで 今ゲットしたのだけど・・そして この写真の駅弁は50周年記念の物らしい・・。

しかし 私が18歳の頃 つまり52年前にはこれはすでに存在していたのだ・・。つまり この弁当は 50年以上前から存在していた事になる・・。

なぜに 今 急にこの弁当の事を思い出したかと言うと この弁当とすごく似ている味の飯を私は今食っているからだ・。

私はしめ鯖が大好きで・・それと似た魚の塩漬けをいつもここニュージーランドのクライストチャーチの家の傍のスーパーで買う。 そして それを少し塩抜きして 甘酢に漬けておくと しめ鯖とすごく良く似た味がするのだ・・。

よって 酢飯にこれを乗っけて食べると 日本にある 鯖寿司の様な味がする・・。

が・・・ヒョイ!と今 記憶が蘇り・・・そういえば・・なんか・・・私が 18歳の時 特急に乗って弁当売りをして いた頃に・・食った弁当の味にそっくり!なのだ・・。

”小唄寿司”と言う弁当の名前がなかなか出て来ず・・・色んな そんな様な音の弁当を検索してやっとヒットした・・。

が・・なぁ〜〜んか 見た目がちょっと違う・・でも その時の弁当とは見かけがちがう・・。

それでもしつこく検索をづつけていると・・あった〜〜!!!! これだ!! 
つまり 50周年記念の弁当として写真が載っていた。

そうなんです・・この弁当です!! 私が食ったのは・・。

売り物の弁当をなぜに私は食っていたか・・?それには訳が・・。

私は寿司が大好き! それも鯖寿司が特に好き! 昔から好きだったのだろう・・今思えば・・。
この売り物の寿司をどうしても・・自腹を切っても食いたい! と思い続けて 弁当売りを特急列車の中でやっていた。

盛岡駅の近くに汚い掘立て小屋的家があり・・そこに何個も二段ベッドがあり・・今で言う3流バッパって言う感じ・・。

早朝 4時 3時には起き出し・・身支度をしてすぐ近くの盛岡駅に駆けつけ・・弁当をしこたま特急列車に積み込む。 なんせ 特急なので そんなに長くは停車していない。 

私の販売区間は仙台から青森までを行き来してうりまくる。

いつも二人組で弁当売りをする。 私と組んだ人はベテランの背はちっこいが なかなか怖そうな 中年に手が届く女。 だが独身。 笑った事は一切ない。 いつも 腹の中で私に怒っているのだ・・と私は思っていた・・。

まぁ〜 それも仕方が無い・・だって そのおばさんベテランだし・・なんでもかんでも テキパキ! 私なんか 自分でも ウスノロで バカっぽく感じる程 そのベテランおばさんの働き具合は すごかった!

そのおばさんに 私は徹底的にトレーニングされた。 何を言われても 私は はい! はい! と 冬でも汗だくになって 働いた。 時には 私はおばさんの邪魔になって なんの助っ人にもならない存在かも・・? と思われる程・・私は 自分で駄目人間に思われた。

でも その時の私には 何も他にできる事は無く・・ひたすら弁当売りの仕事にしがみ付いていた。 ここで 放り出されたら 私の生きる術は閉ざされる・・その必死の思いで おばさんにしがみ付いていたのだ。

おばさんは ビシバシと私に仕事を言いまくってはいたが・・絶対に怒鳴ったり 私自身の人間性を汚す言葉はいわなかった。 ただただ 私が仕事ができる様になって欲しい・・と言う気持ちからくる言葉だけだった・・。

超満員になると列車の通路にカートを押してゆく事なんて絶対に無理! なので・・私は今日は売れないなぁ〜〜〜と思っていたら・・ 彼女は ”売るよ!”と息巻く。

私は ”どうやって?!”と言いたかったが そんな事言ったら どやされるかも・・・? と思って言わなかった。
彼女はやおら弁当を片手に5個ぐらい・・ワッシと腕に抱え込む。 そして 私に”着いておいで!” と言う。 私は 慌てて”はいっ!” といいつつ 彼女と同じ様に片腕で弁当を持つ・・。

彼女は 満員電車の隙間も一切ない状態なのに・・お客さんに ”すみません お弁当いかがですか〜!” と怒鳴りつつ少し進むのだ・・。

驚いたことに その身動きもできない状態でも弁当はうれるのだ!! 
空いた方の腕でエプロンのポケットに売り代金をねじ込み お釣りを素早く出して売るのだ。

あっという間に5個の弁当は売れ・・すぐにまた 人を押しのけ 押しのけしつつ 弁当が積んである所に戻り・・また 奥へ奥へと売りだす・・・ 私は 慌てて彼女に着いて行こうとするが・・そう簡単に 彼女の様に強引に客の体の隙間に入り込む事はできない。

私はもう泣きそうになって 弁当を持っているだけしか 脳が無いのだ・・。
そうやって 彼女は いつもの様に完売するのだ。

その時程 私は彼女を尊敬した事は無い・・。

色んな事が勃発すればするほど 私の彼女に対する尊敬度は高まって行った。 彼女は弁当売りのプロ級のプロなのだ! 誰にも負けてはいない。 仕事の成績も抜群だった。

ある日 その”小唄寿司”を売る日・・この弁当はいつも大人気で絶対に売れ残らない弁当・・だから今でも存在するのだろうけど・・。

売れ残った弁当は 売り子は食ってもいい事になっているので・・だから あまりうまくもない弁当が売れ残り・・それを いつも食っていた。

が・・その日彼女は まだ 売り始めてもいない”小唄寿司”を2つ避けて・・他を売った。 そして伝票に2つ売れ残った・・と言う伝票をこしらえた。

私・・”えっ!?”と思ったが 先輩のする事に口出しなんぞ 口が避けてもできない・・。

仕事が終わって クタクタになって 腹ペコになって・・やっと 一休み・・と言う時に 彼女はやおら 先程の2つの弁当を出して・・一つ私に差し出す。

そして 私に食え! と言う。 その時の彼女の目はニヤリとしていた・・。 彼女は我らの為に2つ売れ残りにしたのだ。その”小唄寿司”の美味かった事! 
思っただけでもよだれが出るほど旨いのだ!

10年ぐらい前だが・・ニュージーランドから日本に行き・・色々観光して周り・・で・・盛岡に立ち寄った時・・私はふと! 弁当売りの仕事をおもいだし・・”小唄寿司”の事を思い出した・・。
その時 私は盛岡駅の弁当売りのキオスクで この”小唄寿司弁当”を発見! 
涙が出るほど嬉しく・・ニヤニヤしつつ 一人でそれを食ったのだ・・。

52年前の弁当売りの話に戻ろう・・大先輩のその彼女は私に言った・・・。「分かってるって 売れ残るはずの無い弁当をわざわざ2つ売れ残りと伝票に書いて問題ないのか?を 心配してるんだろ? これは 弁当業者から やってもいいって言われてるんだ・・。 これは 私達だけの特権だから 他の売り子にいっちゃ〜駄目だよ!」と杭をさされた・・。

私は このベテラン売り子と組めて 本当にラッキーだったのだ・・。それから ”小唄寿司弁当”の時はいつも 2個売れ残りの伝票が切られた・・。

顔が絶対ニコリもせず 怒った顔の彼女だったが・・心は暖かいのかも・・?と 思った。

そんなこんなをおもいつつ・・私は今 ”小唄寿司弁当”に似た味の代物を食っている・・。
死ぬ前に もう一回 あれを食わねば・・。


 

キムチもどき 千枚漬けもどき

最近 キムチもどき 千枚漬もどきってのを 沢山 作っては 食べ 作っては食べしている。

胃弱の私は キムチなんて 絶対食べられない・・唐辛子を ちょっとでも 口にすると 口の中が燃え出し・・その熱さと痛さは もぉ〜! 火でも吹きそうな勢いなのだ・・。
でもって すぐに胃の痛みが始まり 七転八倒の苦しさになる。

だが・・キムチの旨さなんぞ 一生だめだろう・・と思っていたが・・今は昔の突進生活と違い・・ダラダラの隠居の身 毎日 ツラツラといろんな事を考える。

でもって 私は チリソースって物をチリを入れずに 唐辛子の代わりに 赤ピーマンを使って作成。 それが うますぎて・・そして見た目も チリソースとまったく同じ。 誰がみても チリソースにしか見えない・・・。
それを たんまり作成して 私の大好きな生春巻きを 赤ピーマンで作ったチリソース(チリではないけど)で 食べる日々。

そこで 考えた・・この 赤アピーソースを使って キムチもどきができなるのでは・・。 自分で作って 自分で食うのだから うまけりゃ〜いいべ〜 の勢いで 少し 白菜を買って来て・・・
キムチとほとんど同じ作り方で 唐辛子抜きのキムチもどきを作った。

結構多くできた! と思ったが 一日のうちに食ってしまった・・。

次は もうちょっと! と でかい白菜を 2個も使って 作った・だが うますぎて・・それも 数日のうちに 食ってしまった。

もうちょっと 漬物のように ”漬物乳酸菌”が 作成されて 抗菌性物質を発生させたい・・。とおもうのだが・・その暇も無いほどに すぐに食ってしまうのだ。

ってことで 今度は ど〜だ〜まいったか〜! って言うほど 大量に作った。

ついでに 大根の薄切りと 人参とを合わせて 同じ 赤ぴーソースで 先枚漬けもどきも作ったが それも 漬物性乳酸菌ができる前に食ってしまう・・。

こんなに旨い物を何故に 私は人生の内に作らなかったのか?! と 日々思いつつ 食いまくっている・・。

 

2021年7月6日火曜日

気負いは持ちなくない

 ニュージーランドに来て以来がむしゃらに生きて来て・・最近は そのがむしゃらから抜け出て ジックリ 自分の生活を振り返っている・・。

自分探しなのか・・? なんなのか・・? 解らないが・・何が幸せなのか・・? 何がしたいのか・・?

そこで・・最近 人種差別の記事をパート5まで書いてしまった・・。 その後 ツラツラ考えるに・・もし 私が日本に住んだなら・・私は差別を考えなくて済むのでは? と言うことなのだ。

いくら日本が国際社会になってきてるとは言え・・日本は日本である。 日本語であり・・日本人だけだ・・。

鎖国時代の長かった日本は 今 なんだか・・鎖国をしたのはえらい!! と思ったりする。 

南米諸国・・東南アジア諸国等 白人社会でない所はほとんど 白人に占領されて・・植民地とされて・・白人での統治時代が 長年も続く・・。

今はそんな諸国も 独立したが・・色々放浪して経験した事はそんな諸国も マネージャークラス・・経営者クラスとなると 白人なのだ。

体力仕事の労働者は現地の人間・・となっているのが普通だ。

それを思うと 日本は鎖国を強固し・・結果植民地となって白人に支配された歴史は無い。 だから 今でも 日本と言う国は日本人で純粋培養されていると思う。

だから・・だからなのだ・・もし 私が日本に戻って 日本の国で 日本人として 生活すれば・・そんな鬱々とした差別経験はしないで済む・・・そんな事を思う毎日。

白人に負けているとは思わない・・あいつらを蹴散らして長年生きて来たのだから・・。 だけど・・もう そんな気負いを持つ事すら うっとおしい・・自然に何となく 日本の水に溶け込んで生きてみたい・・。

出来るだろうか・・?

2021年7月3日土曜日

人種差別 パート5

 Londonでの オーペアビザしかない私は とりあえず オーペアで住む家を探すしか無い。 毎日 毎日・・あの頃はネットとかあるわけでもなし・・携帯電話なんて無い・・自分の足で見つけるしか方法は無いのだ。

そんな状態で よくもいい家庭を見つけたもんだ! と自分でもびっくりする。

だが 最初から そうスムーズではなかった・・。 

どこでも 私はやはり 有色人種で 能無し的 奴隷的にしか扱われなかった。 毎日 毎日 屈辱的な罵声を浴びかけられ・・扱いをされ・・そんな時間が 長かった。 もう 明日食べるお金も無い・・という頃になって・・私は開き直った。

私は普通のバカでは無い・・働き者で 人の倍は働く・・人の倍の高質な仕事をする。 よって 倍のお金を払うか 半分の時間働いて 普通の時給を支払うか・・どちらかにするべし。

オーペアビザのレギュレーションは一日 数時間労働 って事で 私は 一日3時間しか働きません。 それ以外の労働は 一週間前からのNoticeとその分の時給が発生します。

一ヶ月のトライヤルで 双方の合意があってからの契約成立とする・・という条件をおっ立てた。

私にとっては苦肉の策、なめられっぱなしでは 何も始まらない・・。 もうどうでもいい! なるようにしかならないのだ! 

その私の条件提示は大成功となる。 でかい程度で条件提示をすると 大体の所で私の条件を飲んでくれるのだ。 依頼 私の方で仕事を選ぶという事ができる様になった。

その体験は 以後私の人生の生き方に大きく影響する事になった。

人種差別 パート4

 Londonに到着するまでの3ヵ月間は 私はあまり知らない アメリカ人の家族のベビーシッターとして過ごした。

東京で一緒に住んでいた・・アメリカ大使館員の家族があまりにも いい人で・・私はただのベビーシッターとして そこに住みだしたのに・・私を彼等の仲のいい友達として扱ってくれた・・。

何十年後 ツラツラ考えていたら・・ その家族も ジューイッシュだった。 私を高く評価して 尊重してくれる人達は 全て! ジューイッシュなのだ! と言うのに気がついた。

その家族が紹介してくれた 別のアメリカ人について 私はLondonに渡った・・。 が そのLondonに到着するまでの三ヶ月は 私の一生の内で 最悪のでき事だったとも言えるかもしれない。

つまり そのベビーシッターをしていた家族の奥さんは 私を奴隷の様に扱い・・人を人としては扱ってくれなかった。 私はまるで家畜だった。 寝るのも そのへんで仮眠を取って生きながらえた・・といった具合だ。

何かにつけ バカだのアホだのと言われ続けて・・その内精神も病んでいたのだろう・・・なんでもないのに・・いつも涙が出て仕方がなかった・・。

Londonに着いても奴隷生活は止まらず・・でも何かの拍子に私はそこから逃げ出す計画を立てる。 そこの奥さんは ”どうせ一人じゃ〜何もできないのだから そのへんで野たれ死にするのがおちだ”と悪態をついた。

今でいう KARENと言うヤカラに 私はすでに ものすごく多く出会っているのだ。とりあえず 見た目 様相で私を判断し・・”能無し” ”あやしい” ”悪い事するだろう” ”要するにここから去れ” 的扱いは 日常茶飯事。 

が その時は私は 野垂れ死にの方が今よりまし・・というのを強く感じていたので・・その家を出るのは 怖くも何もなかった。 ゾンビの様にして 辿りついたのが 治安の悪い地区。 そこで ビザも切れ 浮浪者と化した汚い日本人女性と出会う。

その人との出会いによって 私は”生きる”決心をする。 負けてはいけないのだ。 どんなに踏まれても 自分をちゃんと持って生きねば・・あの浮浪者体の女性になってはいけないのだ・・とあせった。

それからが 私のLondon生活の始まりなのだ。

人種差別 パート3

 私がLondonで 1年住んだ家庭は とんでもない大金持ちのジュウイッシュの家族・・そこでは 私は客として扱われ・・尊重され・・夢の緒様な生活ができたが・・ そこに至るまでは 色々あった。

一回 Londonの中流の家庭にオーペアとして入った事がある。 中流が最悪かもしれない。 

と言うのも まず世界の国々の情勢 文化とかに疎い・・つまり 良く知らないから 瞬時に 有色人種 イコール 教育がなされてなくて 英語を話さない イコール脳が足らない・・と判断するのだ。

そこで 私は洗濯機が壊れたのは私の 脳の無い手で触ったからと言う事で・・ 弁償しろ・・と怒鳴られ・・掃除のやり方も知らない 野蛮人と言われ・・ 最新のステレオを購入したその庶民の家庭で 私は ステレオから2m以上常に離れていろ・・と命令されていた。

日本人と言うと 「あ~ 中国人だね」と言われた。

そこは 人間として扱われる所ではなかった・・。つまり 彼等は世界の国々の知識は全くなかった・・。

そこでの経験と そこでの人間を観察し 理解した知識は 私の脳みそにシッカリと叩き込まれた。

だから 其の後の私の人生で 人との出会いで瞬時に 差別人間と 対等に接して私を尊重して接する人間の違いを判断できる様になった。

人種差別 パート2

 Londonで 私がオーペアとして住んだのは その大金持ちジュウイッシュの若い夫婦の家。 

以前もそこの家では時々 他のオーペアを使っていたが・・家じゅうの棚 引きだし クローゼット パントリーすべての所に鍵がかかっていた。

が 私はそれは知らなかった。 ある日・・そこの奥さんが あなたが来てから 初めて・・物がなくならなくなった・・と言う。

私は彼女が何を言っているのかわからなかった・・。 つまり 彼女は常に 常に 全ての箇所に鍵をかける習慣があって・・ それを私が来てから かけ忘れる事が頻繁に・・。

そして かけ忘れたら大変! と思っていたが・・鍵をかけなくても いっこうに 何も盗まれない・・。

で・・彼女は 私のところに来て・・「鍵をかけなくてもいい生活って 素晴らしい! 初めての事なの!」と 目を輝かせていった。つまり 私は物を盗まないのだ! と言うのを発見して 喜んでいたのだ。 

以来 私はこの家で ものすごく大切に扱われた・・と言うか オーペアと言うより 大切な客の様に扱われたのだ。

奥さんは料理も何もできないで育った・・つまり 大金持ちのお嬢さんで育ち 全てはメイドがやってたので・・何もできない・・。

私が作ったランチを 「できたら 少し私 もらえるかなぁ~~」とオズオズと言う。 私は 「もちろん! だって この材料は全部あなたの家の冷蔵庫からなのよ~!」と言っても・・彼女はまるで 浮浪者がめぐんでもらえる様にありがたがって 私から受け取った。

料理のできない彼女はいつも 飢えていた。

私はミシンも何も持ってなかったけど・・手縫いで自分の服を縫って・・着て歩いていた。 それが そこの奥さんの目に止まり 彼女は私に彼女の服も作ってほしいと言い出した。

私の服はけっこう突飛だったかもっ知れない・・型紙がある訳でもなく・・デザインは自分の感覚で裁断して感覚で縫い上げた。でも それが 斬新で奥さんは高く評価してくれた。

高級ブティーックで買って来たドレスを 私に手直ししてくれ・・と頼んだ事があった。 手が震えて 鋏を入れるのが怖かった覚えがある・・。一歩間違ったら 私には弁償なんて絶対できない代物なのだ。

お金の無い私が買う布切れは 処分品の端切れが多かった・・。 でもその端切れは 元は とんでもなく高い代物で 庶民には手のとどかない 物ばかり・・。 

だって Knight Bridge つまり Harrods とかのある高級な物ばかりのある地区を 私はほとんど毎日うろついていたのだ・・・。

その辺にいると 世界のてっぺんの人達の生活が見えて来る。

そして その一角に Slone Squeir があった・・そこは 私は一日十でも いて楽しめたのだ・・。 私の服を作った 端切れの布は そこ Slone Squeirで いつも買っていた。

Kate Middleton が 出現した時 Slone Squeir Girl と呼ばれていたと聞いた時・・

”お~ わしも スローンスクエアガール だったべ~!” と思った・・。

んなこたぁ~ないのだけど・・その頃に 世界の中で てっぺんの世界 真ん中の世界 そして 下層の世界を たんまり見て・・そして 体験したのだ・・。

人種差別 パート1

 欧米の国に住むと・・・即座に感じるのは ”差別”的視線だ。 そして 瞬時にそれは私のガッツに通じ 自分が差別されている・・と言うのが判断される。

最初に住んだのがLondon. そこで 私は人生での ”差別”される感覚を知り・・差別する人と される人の区別が瞬時にできる様になったと思う。

ニュージーランドで宿業を32年も続けれたのは その経験無くしては考えられない。瞬時に私を下層人間と判断するヤカラは 使えない・・。

Londonでの数年住んだ経験は私の人生を変えた。 有色人種の私は白より下に位置付けられるのだ・・と言うのを骨の髄まで沁み込ませてくれた・・・。

そんな中 私を高く評価してくれた人種がいた。 それは 私がオーペアとして住み込んだジューイッシュの家族。 とんでも無いお金持ち。 

週末にはロングドレスを着て 夫はタキシード 黒塗りのリムジンがお抱え運転手で出迎える。 そんな家族だ・・。

私はそこで 家族同然に扱われた・・。 私はバカではなく 賢く 服装もセンスがよく他の人達とは違う・・といつも言われた・・。

Hurlingham Clubのメンバーである家族は 私もそこに招待し・・私にもゲストカードを渡してくれて 自由に出はいりできる様にしてくれた。

が 私はそこは 私の様な者が出はいりする場所ではなかった。 どう見ても アジア人メイドとしか扱われなかった・・。 普通の欧米人は 私を人目みて 下層人間と判断する。