私は母親が肺結核の療養で 幼児期に野生児になって育った・・腹が空けば・・食い物を漁る・・昭和30年代と言うのに私は裸足でいた事が多かった。
つまり 靴とか言うのもは 小さい時に買って貰ったのしかなかった。 母親が家に戻って・・・私は極端に小さい靴を爪先を曲げて履いていたと言う・・。
母親代わりにいた女中は 私を叩いたり したたかに摘まんだりしていた・・。 あの摘ままれた後の痛さは今でも忘れない・・。
つまり 母親不在の間 家を牛耳っていたのは女中で その女中から逃げ惑うのが私の毎日の生活だった・・。 そこに2才下の妹がいたが・・ 彼女は常に私の小判鮫のような存在で 引っ付いていた。
そんな育ち方をした野生児・・つまり 自分の生存は自分で守る 母親は私が10歳になる
頃結核療養地から家に戻って来て突然に私の人権を無視する行動に出る。
10才の子供であった自分は あの頃すでに自分の人権を言うのを持ってしまっていたのかもしれない・・。
私の考え 感性 行動をことごとく無視され 否定されると言う毎日が起こった。
それは もう 拷問のむしろに座らせられ そこには 反論の余地は一切なかった・・許されてなかった・・。
つまり 親は絶対、 父親の口癖は ”扶養されている癖に・・” と言う事だった。
子供の頃 ”扶養されている・・” と言う呪縛は 本当に呪わしい言葉だった。 12・3才の頃からは ”扶養さえされなければいいのだ!” と言うのが 頭の中に住み着いた。
以後 ”扶養されない” イコール自由を手に入れると言うのが 自分の生きる基本になる・・。
以後 自分は大人になり いち早く 死ぬ気で海外に出る・・ そこからは 海外の”個人主義”に ドップリ浸かる事になる・・。
野生児で育った私にとって ”個人主義”と言うのは ぴったりのやり方だった。 つまり ”自己確立”は否が応でも迫られ・・ 全ての責任は自分で取り・・その代わり ”自由”を手に入れる。
と言う事は ”自己確立” と言うのが無くしては生きては行けない・・。 全ては自己責任で事は進む・・。
何をやるにも 全て”自己責任”でしか事は進まない・・。 人の助けと言うのは 一切期待してはいけないのだ・・。
日本社会では 特に田舎では ”付き合い経費”と言うのが 生活費用の大きな部分を占める・・。 これは絶対に怠ってはいけない費用なのだ・・。
助け合いの精神と言えば 聞こえはいい・・。 が! それは ”保険” と言う費用だと 私から見れば思える・・。
つまり 何かあったら 助けて貰う・・ よって それに対しての費用なのだ・・。 家族の付き合いも・・近所付き合いも・・親族の付き合いも 春夏秋冬・・冠婚葬祭・・ それらに大きなお金を投資する・・。
悪いと言ってるのではない・・ つまり それは ”個人主義”の社会とは全くもって違いすぎる社会だと 今回日本に戻って来て再痛感する・・。
結局は人生を 親・親族・知り合いのバックアップによって 成り立っているのだ。 つまり それが 恐ろしい程に 人生の”バックボーン” となって成り立っている・・。
と言う事は それに ”義理を欠いてはならない” と言う信条が強くある・・。
”義理を欠く” イコール それはもう 人間ではない・・ と言う摂理がでて来る・・。
さて 自分は 年賀状を言う物すら・・子供の頃以来ない・・ 付け届けもした事はない・・されてもお返しと言う物もしない・・ ことごとく ”日本社会保険システム”を利用しなかった・・。
つまり 日本人からみたら ”義理を欠いた人間” を生きて来た。
が! 海外にでて ”個人主義”を知ってしまった後は その方向に没頭した・・。 産後の日達が悪く・・ 寝床にいながら一日12時間も内職をする日々が続いた事がある・・。
一日12時間働いても 100円にしかなかった・・ が 一ヶ月で3千円になる・・ 37年前 高卒の初任給が優に10万円を越している時期にも・・ 一ヶ月3千円は 私にとっては 大金であった・・。
よって その内職を出来ない事は飢える事になった・・つまり 大きな食費になったのだ・・。 それは 何年も続いた・・。
子供を預けて働き出した時も このまま死ぬのでは・・と思った事は何回もあった・・ 早朝からでかけ 子供を預け・・昼の横に置いてあるオニギリ一つを口にする時間もなく 働いた・・。
夜も勤務服のまま ぶっ倒れるように朝まで寝てしまった事も何回もある・・。 親はなくとも子は育つと言うが・・ 私の子供は保育園・学校・学童保育で育ったような物だ・・。
海外移住した時も そこら辺で野垂れ死にしてもいい と言う覚悟で行く・・。
常に”死”を覚悟して望まないと・・何も始まらないのだ・・。 誰かが手を貸してくれる訳でもなく・・ 全ては自己責任だから・・。
”個人主義”は ”利己主義”とは全く違う。 それを混乱する人がいる・・。”個人主義”では キチンと自己確立さえできていれば・・生きて行ける・・しかしそれは絶対に容易ではない・・。
常に自己責任が課せられる・・が 私は海外移住してから・・弁護士も何人も代えた・・。結局自分の価値観の合う弁護士に今は出会っている・・。
最近は4年越しに戦っていた相手に勝利した・・。 もし私が最後の判決に旅にでていなかったら 完全勝利且つ相手にお金を払わせる事もできた・・と弁護士は言っていた。
4年越しの戦いは長かった・・私の弁護士は粘り強く 私に付き合ってくれた・・私の歯ぎしりを噛むような人権無視的行動をとったそのビルダーは何がなんでも許せなかった・・。
私は弁護士に依頼するとき 相手、つまり敵と絡んでいる金は微々たる物・・だが 自分のJusticeの為には そんなお金の何倍物弁護士費用がかかっても いい! と告げた。
弁護士も自分の事のように憤慨し・・私のJusticeを守ってくれた。4年越しの勝利後 私は膨大な弁護士費用を覚悟していた・・。その価値は十分にある・・。
回りの私の知人達は 自殺行為だよ・・と言った。 破産しようと自分の人権は守りたい一心だから・・私にとってはそれでもよいのだ・・。
結果弁護士は戦いに絡んだお金は殆どなくし・・彼の弁護士費用も微々たる物であった・・。 そして 自分の事のように喜んでくれた・・一緒に個人的にお祝いもしてくれた・・。
彼のクライアントで彼私用の携帯番号を持っているのは私だけだと聞く・・。
移住地で得た20年越しのビルダーは最初は若造だったが・・今は何人ものビルダーを雇い・・現場監督兼彼の右腕の男をも得ている・・。
仕事も億と言う大きな物ばかり手掛けるようになっていた・・私が仕事を頼もうにも・・何年先までも先約が入っている・・。 だんだん私から遠くなって行ってると思ったが・・私が困っていたら・・どんな小さな事も 私が自分でやっていると 見てられないとばかりにと一緒に日曜大工的な事をやってくれる・・。
なんでも困ったら すぐ俺に言え! と言ってくれる。 本人が来れないと必ず使用人の大工を寄越す。 あまり小さな仕事は金の請求もして来ない・・。
電気屋も同じだ・・彼は電気屋はもちろん 大きなビルの消防法アラームシステムもライセンスをも持ち・・TVアンテナ配線 電話配線 インターネット配線 取りあえず 全てのライセンスを持っているので・・・大きな仕事をガンガンこなす。
しかし 私が丑三つ時に困って電話しても・・やって来てくれる・・何があっても どんな時間でも 日曜祭日でも 携帯にでない事はない・・。
友人で今 電話して泣きつけば 次のフライトで私のところに飛んで来てくれる人がいる。 彼は何ができると言う事はない・・ どちらかと言えば常にオケラ状態。
だが 電話も忘れた頃に彼からかかってくる・・”大丈夫か?” と言うから 私が ”うん” と言うと ”じゃ~よかった” といいすぐ電話を切る。
信頼・友情は個人主義社会でも立派に築きあげる事ができる。 義理人情と似ているところもある・・。
自分はたくさんのそんな人に囲まれて突っ走って行けるのだ・・。
それは 家族親戚保険システムとは全くもって違う物なのだ・・。
人生は ”守り”に入ったら おしまいだと思う・・。 つまり ”守り”イコール 先はない・・。私には守る物は何もないのだ・・。
さして言えば 私を無条件で支えてくれて 信頼してくれる人を裏切らないと言う事だけだ・・・。
自暴自棄ではない・・ 常に自爆を背中合わせ・・つまり死ぬ気で突っ走る・・それしか方法はないのだ・・。
他の事を選ぶ選択枝はないのだ・・・。
バックアップとか言う 日本社会の家族親族保険なぞないのだ・・。 3回結婚したが・・ 女として 扶養される・・と言う・・”甘い” ”優美”な経験をした事はない・・。
常に 自分の足で綱渡りをしている・・ いつ奈落の底に落ちるかも解らない・・そんな生き方しか 私は知らない・・。
もうすぐ90才になる母が 私の夫がテーブルにあった食器を片付ける姿を見て・・”優しい旦那さんに出会ってよかったね” と言う・・。
思わず私の口から出た言葉 ”私はあの人に 一銭たりとも扶養して貰った事ないし” なんともかわいくない返事だろう・・ だが そのままなのだ・・。
男に扶養された経験のない女は・・自分の足でしか立った事のない女はそうなって行くのだ・・。
死ぬほど自分の夫を呪った時期も多々あった母。私はうんざりするほど愚痴をきかされた。 私が高校生の頃から ”あんたも女だからわかるでしょ?!” と 訳のわからない事を涙ながらに愚痴っていた・・。
父は若い時から女を外に常に作っていた・・。 70才になっても 80才になっても 女を作っていた・・何十年も同じ女をもっていた父・・それが 二人同時に女を作っていた時期も相当の間あった・・。
だから母も父を呪った・・。 が 私が離婚を勧めても・・絶対にそれはなかった・・。 つまり 専業主婦の”妻の座”にしがみついていたのだ・・。
そして 父が死んだ後は 心身共にボロボロになった母。酷い鬱に落ち込み 手がつけられないぐらいになった・・。
これは 日本社会に見る典型的な ”自己確立”のない人間と言えよう。 日本社会で言えば それは ”普通” だから それを私は非難する気は毛頭ない・・。
そして 父の外の女は一銭も父からは貰えない・・が・・妻の座である母は扶養される権利がある・・父の死んだ今でも 公務員であった父の年金を妻は受ける権利がある・・。
よって 贅沢な介護施設にも入れる・・。
これなのだ・・”日本社会の家族保険”と言う物は・・。 ましてや 父の先祖から継がれた土地もある・・。 全て それは 法的妻である母が受けとるのだ・・。
自分の生きてきた ”個人主義”は その ”日本社会保険”と言うのが無いだけ・・常に綱渡りだ・・バックアップはゼロなのだから・・。
自分は訳の解らない病気が取り付き 苦しんで苦しんで 救急車で運ばれ・・このまま死ぬのでは・・と思うことも何回もあった。
無理ばかりして自分の体を省みる余裕もない自分は 医者の言うことばかりなぞ聞いていられない。 そんな余裕はないのだ・・。
もし 医者の言う事を そのまま聞いていたら・・ 自分は 今ごろ薬づけになって・・病院にいるかもしれない・・と思うことがある・・。
血液検査は毎月医者が私に強要する・・ドンドン検査検査の手紙が私の私書箱に舞い込んで来る・・。つまり 正常値ではない結果ばかりでてくるのだ・・。
”守り” ではなく ”攻め”だけで生きてきた 私の体は 老年期に入り心身共に極限に来ているように思える・・。 が 綱渡りの人生は 立ち止まる事は許されない・・立ち止まるイコール 死と直結する・・。
商売をしている事 イコール それは綱渡りなのだ・・。一寸先の事は何も解らない。
私の故郷になっている クライストチャーチの大地震で 建物を失い・・商売は停止状態になった事がある・・。つまり無収入イコール多大な必要経費は否が応でもでて行く・・。 つまり大赤字・・。
停電・水道停止状態の大地震後・・井戸水を運び 薪で火をおこし・・私の貯蔵庫のような冷凍庫の食料で回りの人達の飢えをしのいでいた時は・・ もう完全に 綱渡りの綱から 奈落の底に落ちた・・と言う感があった・・。
突き進む力も全く失せて・・ 人気の居ない裏の壁にフト背を寄りかけた時は 足が砕け止めどもなく涙が溢れて仕方がなかった・・。
もう 私の突っ走りは終わったと思った。死んでもいい・・ もう疲れた・・立ち止まって一息いれたい・・それだけだった・・。
35才になる息子が私の商売を嫌々手伝っていたので・・ もう 全ておしまいにしよう・・と 私が言うと・・ ”俺はやる” と言う返答が返ってきた。
彼もまた ”個人主義”の社会で育ち・・日本社会の家族親族保険なぞ なにもない人間なのだ・・。 それなのに・・”俺はやる” の一言は・・ ”俺がその綱渡りをやろう” と言
う事なのだ。
その時 私には バックアップは皆無と思っていたが・・目に見えない物が いつの間にか育っていたように思う・・。
日本社会の家族親族保険を強く持つ人間には 絶対に理解の出来ない ”個人主義”のすさまじい世界なのだ・・。
日本社会の家族親族保険を強く持つ 日本の私の家族は 一切私の生き方を肯定できない・・私の生き方は自分勝手の自己中心的な行動としか写らない・・。
つまり 私の生き方を全否定している・・卑下すらする・・傲慢としかとらない・・よかれを思って老朽化した母の家に金を使っても ”金持ちぶって” ”人を貧乏にん扱いして” と言われる・・。
一日12時間労働で100円の収入、腱鞘炎になりつつも 産後の日達が悪く 床に横になりつつも働き続けた事は 今もなお私の身に染みている・・。
100円のお金も・・落ちている輪ゴムも無視できなくて・・拾って大切に仕舞うドケチぶりも 今も変わらない・・。
身をすり減らしながらも そうやって 生きて行く方法しか知らない・・その生き方を少しでも揺るがしたら 綱から落ちると言う恐ろしさを抱えつつ・・生きるしかないのだ・・。
日本の家族親族保険システムが悪いとも言わない・・が ”個人主義”の生き方の人間がこの地球上にいると言うのを知らずに・・私の全人格をも否定する・・と言うのは あまりにも悲しすぎる・・・。