バックパッカーと言う 海外からやってくる ワーキングホリデーと言うビザでニュージーランドにやってくる若者がほとんどの宿経営。
その国の人の名前を聞いただけで ラテン系とか・・ドイツ系 フランス系とか・・そして 中国人系でも 台湾、東南アジア人、 香港人 と色々あります。 その中でも どこの国籍かは なんとなくわかる様になって来た。
個人差はあっても やはり国民性気質も 明らかに見て取れる。
私が海外に出る前の時・・中学生ぐらいから 二十歳ぐらい迄は 外国人といえば 映画に出てくる人ぐらいしか知らなかった。
そして 突然 20歳ぐらいから 私の生活は一変して 殆ど日本人以外の人の間で過ごして来たような気がする。
外国人と接していた時は 必死で 普通に付き合っていたが・・。今 自分の人生を思い起こせば・・あの映画でしか見た事のなかった人たちが 生身の人間として 今 私の目の前で 私と対等に接している。
まるで異国の 全くの異人としか見れてなかった 怪しげあ生物が 今は 普通の人として 普通の人間として 自分と全く同じ対等な人間としている・・と言うのが 不思議で仕方がなかった・・。
今は 外国映画を見ても 別世界の人として見ていた外国人が ずっと身近で・・私のあの友人と同じ国の人と見れる様になってる。
夢のようなフランス映画の主人公であった人が 友人と同じような顔をしていると・・あぁ〜 あの映画の主人公と同じく この映画の主人公も タダの人なんだなぁ〜 と思う。
私がバックパッカーの宿経営をしている間に 1年間フランス人の男の人が 宿で働いてくれた。 彼とのつながりは 人間的にとても強い物だった。
カナダ人、スイス人とか 色んな人が 宿の客だけではなく 宿の従業員としても いてくれた。
友達になりすぎて・・私の自宅に住み着いた 外国人も少なく無い。 そうして寝食を何ヶ月も共にした。
私が初めて外国人の中に入ったのが 東京に住む アメリカ人家族だった。 英語を話したいということで 私は英語環境どっぷりの 住み込み女中でもすれば 英語がすぐ覚えられると考えて その手を考えた・・。
ラッキーな事に その頃 外国人家庭(とびっきり金持ちだけ)で女中を探している家は いくらでもあった・・。
何件も家庭に訪ねて行くと だんだん気が重くなってきた。
というのも どの家の奥さんも 私をゴミ扱いした。 どう考えても 「あんたは教育の無いバカだから家畜並ね」的扱いをした。 部屋も ダンボールの積み重なった倉庫が 私の部屋と紹介される。
そんな家を何件も回って行くと・・もう やめとこ! と思い始めた。
そして 一つだけ 女中ではなく ベビーシッター それも 時々働くと言うのがあった。 その代わり お給料はポケットマネー程度。 面接に行くと 私を長年のお友達の様に扱う。
あれ?! 違う! 全然 ちゃうし! ま〜 いい いや これはいい! お金とかは問題ではないし・・住み込みだから 英語だけの世界にはいれるし! ということで 即決定!
以後 子供は2歳半の 第一反抗期の 足跡まで憎いと言われる 一番扱い難い時期の子供との戦い。 しかし! この子供 どんなに反抗しても 憎らしい事をしても 親は 私に任せるのだ。
私は怒ってもいいし・・暴力さえふらなければ その子の接し方は 私に任されてしまった。 と同時に 親の権限も私に譲ってくれたのだ。
そうなると 私の子供の扱いが ものすごく楽になったのだ・・。
子供がだだをこねて 何がほしいとか 何がしたいとかごてても 全部 「Norikoに訊きなさい。Norikoがいいって言ったらいいよ」と 親に言われる。
渋々 子供は私の顔色を伺う様になった。 つまり その子供は私に絶対服従をしいられる様になるのだ。 親の作戦大成功なのだ。 つまり 母親はもうすぐお産で その子の面倒を見つつ お産は大変になるのだ・・。 なので その子が 私になつくのが 母親にとっては一番のお手伝いになるのだ。
その子は 最後には 寝付く時私が読んでいた本をのけて 私の首を掴んで 私の顔の目の前で 寝息を立てる様になった。
出かける時も 私のスカートの端っこを掴んでいないと不安で仕方が無い。
電車に乗る時は 私の膝に乗って 私にべったり抱きついた状態で納得していた・・。
ある日 その家庭で アメリカ人大使館の偉い人がそこのご主人で・・奥さんはお腹がでかいのに 大使館の仕事なのか ディナーパーティーをしなければならないと言う。
奥さんは 若いので かなり緊張して 私も手伝って・・ディナー料理を作り・・ティナーセットも全部整って・・後は お客さんを待つだけ。
私は もう殆ど出す料理もできているので あとは かしこまって 料理をサーブしてゆけばいいので・・奥さんを お客さんおもてなしに 押しやった。
で!食事中に客の日本人奥さんが 私に向かって 「ちょっと あなた この私の落としたフォークを拾いなさい」と言いつけた。 私は慌てて 「かしこまりました!」 と言ってキッチンに行こうとすると・・
びびったのが その家の旦那さんと 奥さん・・「Noriko いい! いいから! 私がフォークを取って来る」と その家の夫婦二人が焦って立ち上がったではないか!
そしたら フォークを命じた 日本人の奥さんも 慌てて立ち上がる・・。 なんか大変な事になったのだ・・。
結局 私があわわわしている間に奥さんが キッチンからフォークを持ち出し・・彼女は私に「Noriko もうあなたは自分の部屋に行ってて・・後は全部私がしますから・・」 と言う・・。
えぇ〜〜! まだまだ ディナーは始まったばかりだし・・ あんたそのでかい腹抱えて・・それもロングドレスを引きずりつつ これからの料理のサーブを一人でやるの〜?! 私がやります! と言っても 彼女は いえ! あなたは もう 出て来てはだめ!
私はハラハラ そして奥さんは汗をカキカキ 一人で頑張って やりこなしたのだ。
その日本人奥さん夫婦は ディナーが終わったら そそくさと帰ってしまった。 そしたら 他のお客さんも居づらくなったのか 全員帰ってしまった。
みんなが帰った後・・奥さんが 「Noriko 日本人ってのは そんなに早く帰る物なのか?」って訊く・・・私は返答に困った・・。
アメリカ大使館の偉いさんの旦那とその奥さんに召使いの代わりをさせた・・。ひどいことをさせてしまった・・と思って 帰ったのだ・・と言うのが私の見解・・。
旦那さんと奥さんは 私を召使い扱いをしたのが 私に対してとても悪いことをしたと思って 私をかばっただけだったのだ・・。
その家族が ユダヤ人家族であると 言うのを 配管修理に来ていた男から言われた。
が・・その時 私はその 「ユダヤ人」と言う事を言われても 「だから?」 と思うだけで なんの意味もなかった・・。
やがて その家から離れて 私は直接ロンドンに行くことになった・・。 他のアメリカ人家族が二人の赤ちゃんを抱えてアメリカ横断して ロンドンに2ヶ月かけていくので どうしてもベビーシッターが必要ということで・・私はその話に乗った!
旅費も食費も数カ月のホリデー期間中費用全部無料!
だが・・私はその一緒に行くアメリカ人がそういう人かどうか?も 調べずに出発してしまったのが 地獄の始まり・・。
あの頃が 一番の私の人生の地獄だったかもしれない。 私はその奥さんにとっては まるで家畜だった。 バカだのちょんだの常に怒鳴られ・・休みはなく 二人の赤ん坊をあてがわれ・・私の休息所は 深夜時々 リビングのソファーで仮眠するだけ・・。
私はどんどん 食も細くなり・・ガリガリに痩せて・・鬱状態に落ち込んで行く・・。 なんでもないのに涙がこぼれて来る・・。
ロンドンについてからも その鬱状態は続き・・意を決して 私はその家を離れたいと言うと また 罵倒された。 が・・救われたのは 旦那が私の鬱状態を察して どこか 気が休まる家庭を紹介してあげる・・と言う。
でも 私は もうそのへんで野垂れ死にしても もうその家庭関連の人のところには行きたくない・・と断った。
家を出る時 奥さんから ありとあらゆる罵りを浴びせられた・・。
そして また 一苦労。
毎日面接に行くが・・どこもかしこも 東京で面接に回った時と全く同じ・・どの家に行ってもゴミ扱いされる。 自分の寝泊まりする部屋は 倉庫と同じ。
最後にあきらめて 普通と思われる家に住みこむ事にした・・。 が・・大金持ちでなければどれでもいいや〜 と思ったが それは間違いだった・・。
朝から番まで 奴隷の様に働かされ・・怒鳴られ・・1970年代はまだまだ 有色人種と白人の間の隔たりもあり・・
あるパブに行った時 一緒にいた 白人家庭の人に 「あんたはあっち」と言われた。
つまり 白人と有色人種は パブが半分に分かれていて 白人の場所に私ははいれないのだ・・。 ゴミ扱いされるのには慣れていたが・・ハッキリ差別された事はその時が初めてだった・・。
その家のステレオシステムが その家では とんでも無い ハイテク機械で私はそのステレオに2m以上近づいては行けないと言われた。 壊すからというのがその理由・・。
ある日洗濯機が壊れたら 私のせいだから弁償しろと法外な額を言われた。 私は怒鳴られ続けるのが限度に来ていたので その瞬間 なけなしのお金を全部支払って逃げる様にその家を出た。
また 住み込み家庭探しを始める。 そんな中 ホームレス・・? と思えるような薄汚い日本人の私と同じような年頃の女の子にであった・・。 なんか私に要求して来る・・。
彼女は 何を訊いても 「んなもなぁ〜ないよ〜!」としか言わない。職も家も無い・・「VISAはなんのビザ?」と訊くと・・同じく 「んなもなぁ〜 ないよ〜!」と言う。 私が 「出国する時に捕まるんじゃ〜ない?」と言うと 「もう日本には帰らないからいいし・・」と言う・・。
その時 私はゾッとした・・。 このままで行くと 私も この薄汚れたホームレスに成り下がる・・。と焦った。
それから 真剣に住み込み家庭を探し始めた・・。 なんとなく・・東京で住んでいたアメリカ人家庭の夫婦のような温かい感じの家を発見!
イギリスのオーペアビザと言うのは 外国から英語を学ぶ為にくる若者が取得できる物で 家庭に住み込み 1日2〜3時間 奥さんのヘルプをして・・ポケットマネーをもらい 公立の殆ど授業料無しの英語学校にも通える・・と言う物だった・・。
私はひどい目にあってばかりで ロンドンについてから 半年もたっていながら そのオーペアビザでありながらも ちゃんとした オーペアをさせてくれる家庭に出会ってなかった・・。
ということで 私はその感じのいい奥さんに トライやる期間を設けた・・4週間双方がハッピーであれば 継続。 朝9時から11時迄赤ちゃんの世話。 それ以外は一切やらない。 それ以外の時間は完全自由、つまり拘束なし。 ポケットマネーも設定。
もしそれ以外のベビーシッターは 1週間前のNotice無しではやらない。 の条件を 奥さんは わかりました・・と飲み込んだ。
その家は とんでも無い金持ちで・・親戚も全部血縁は 大きなお屋敷に住み 運転手付きのリムジンがあり・・何人もの召使いがいるのが普通。
でも その私が決めた家は金持ちだったけど・・若夫婦でそこまで大きな家ではなかった・・。
奥さんはお嬢さんで育って・・料理は一切だめ。 私が作った かんたんなオムレツを 物欲しそうに見ているので 食べる?と訊くと ものすごく喜んで食べた。
奥さんはいつも 家の中でもハイヒールを履き 高級服を来て・・全てが高級感いっぱい!
私の部屋もインテリアデザイナーのデザインした部屋で 洒落てて まるで インテリア雑誌から飛び抜けて来たような すごいところだった。 私専用のバスルームもあった。
私がその家に入る迄は 看護婦さんが 1歳の赤ちゃんを育てて来たので 奥さんは一切その赤ちゃんに関わっていなかった。 なので そのあかちゃんは 私を母親と同じぐらいに慕った。
今までの看護婦さんは かなりの年寄で 赤ちゃんを椅子に座って 見守るだけで 赤ちゃんと遊ぶということはなかった。
なので 私が来てから その赤ちゃんは様子が完全に変わった と 奥さんは行っていた。常にキャッキャっと言いながら 私について来て・・私の名前を Nonoko!! Nonoko!! と 呼び続けるのだ。 私が現れると異常に喜ぶ。
結局私は 時間外でも そのあかちゃんと いつも遊んでいた。 私が一年後 その家を出て フラットに引っ越したら その赤ちゃん 鬱っぽくなってしまって・・私は何回か ベビーシッターを頼まれた。
そして その奥さんと旦那さんは 数カ月のヨーロッパホリデーを予定してるけど・・どうしても 赤ちゃんを連れて生きたいので・・あなたも来てくれないか? と言う・・。
私は 初めて 住み込みから開放され 自立の道を歩み続けたばかりなので どうしても その申し出は渋った・・。
が 二人は 諦めない・・週に3日だけ赤ちゃんの面倒を見てくれ。 それ以外は全部自由、 豪華ホテルでの別の部屋を取り 旅費も食費も 全て無料! お金も出す! と言う・・。
今 考えると そんな豪華旅行が タダで それもお給料も出る。 仕事だって行っても 私になついている2歳ぐらいの赤ちゃんと一緒に遊んでいるだけ・・それも週3日だけ・・。
だが それも辞退した。
やはり自立した生活の魅力から離れたくなかった・・とんでもないお金持ちの奥さんの実家は大きな会社をやっていて・・「Norikoはすごく賢いし・・あなたの服装もセンスがよく品がある しっかしした誠実な人だから 私の会社で働きませんか?」ともいわれた・・・。
でも やはり 自由自在に 動ける様になった生活からは離れず・・私はそのまま 突っ走った。2年近く関わった
その私を完全に見込んでくれた人達が ユダヤ人家族だった・・。またもや ユダヤ人が出て来た。
そんな生活を送った事を・・ここニュージーランドに来てから またもや とんでも無い 人種差別を受け・・と言うか 有色人種を白人が見る目と言うのを 嫌と言うほど体験する日々。
70歳に手が届く今・・ そして 宿を手放して・・完全自由な身になる・・と言う今・・ふと考える。
もし私が日本にいたら そういう目で見られるということはもう絶対になくなるのだ・・。と思うと・・それもいいかも・・? と思うようになる。
がむしゃらに突っ走って来たけど・・もう そのがむしゃらも不要なのだ・・。 もう何も頑張る必要はないのだ・・。 自分が自分らしく 自由になれるのだ・・ と日々思う・・。
私は 日本を出ると同時に 世界人種の中のマイノリティーになったのだ・・。
ナチスドイツのユダヤ人刈りの中に マイノリティー人も入る。 有色人種・障害者・同性愛者なども ユダヤ人とひとまとめにされたのだそうな・・。
ゲルマン人といわれる人達の中にいたら 自分はマイノリティーであり・・下層である・・というのは
今でも脈づいているのはたしかだ・・。
70歳近くになって やっと どこに行っても 唯一ユダヤ人だけが 有色人種の私を普通の人間扱いしてくれたのだ・・と言うのが わかった・・。
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