2020年3月7日土曜日

イミグレとの戦い

息子がまだ 7歳ぐらいの頃だから 1970年代終わりか 1980年代に入った頃 私は イギリスに移住したいが為に 子供を連れて ロンドンに向かった。

あの頃は ネットもなく・・・ 私が1970年代にロンドンに2年住んでいた頃の情報だけをあてにして・・どうにか 永住権を取得できないものか・・? を模索していた頃だ・・。

とりあえず ロンドンに住んで そこから どうにか永住権につながる様な方向にやってみよう! と言うのが 私の渡航の理由だ・・。

が そんなこたぁ〜 口が避けても ヒースロー空港のイミグレーションオフィサーには言えない。 とりあえず私は 六ヶ月の観光ビザがほしい! を連呼した・・。

前もって用意していた・・銀行の残高証明書・・子供の学校の手配・・・ 私は ダメ元とは思いつつ・・かなりの準備をして 六ヶ月の滞在許可発行んい臨んだ・・。

すったもんだの挙げ句 なんと! 私は親子二人の六ヶ月の観光ビザを 空港でゲットしたのだ! やればできる! と言う自信をその時 会得したのだ。

その時の飛行機は パキスタン・エアライン かなり怪しい・・ 36時間かけて 日本からロンドンまでたどり着くのだ・・。 ましてや子連れ・・そうとう怪しい・・・。 

パキスタンエアラインで 1980年はじめの頃のバックパッカーの男達・・・多分8人ぐらいの子が居たと思う・・・彼らは 私が そのイミグレで擦ったもんだをしていた 一時間以上の間 全員私を待っていたのだ・・。

なぜか? その夜泊まる所がある子は誰も居なかった・・。 私が飛行機の中で 「どうにか見つかるさ!」 と言った言葉をあてにして待っていたのだ・・。

イミグレでやっと開放された私と子供は ぞろぞろと大人数を引き連れて 空港の外にたむろしている バックパッカーの客引き男との交渉をやった。 
その夜はまるで 修学旅行の宿の様なやかましさだった・・。

そんな経験から自信をつけた私だったが ニュージーランドに初めて足を運んだ時 イミグレで止められた。

日本の団地で捨てられていたビニールのバッグ一つを カートに紐で縛り付け・・・汚い格好で ニュージーランドを見に来た・・その夜に泊まる所も決めて無い・・と 言えば ま〜 それも仕方ない事かも・・?

私はいつもどちらかと言えば ホームレス的な格好をしている。好きでやっている訳でも無い・・。 

どうしても 無駄なお金は使いたくないし・・実用的な服装が好きだし・・ 日本の物の豊富な社会では 団地の粗大ごみ置き場が 私の生活必需品の宝庫なのだ・・。

家具も ミシンも 自転車も その旅行バッグも ”ゴミ”から引張だして来た物だから 見た目が言い訳が無い・・。

ニュージーランド大使館から 永住権発行をします! と言う確定ができて・・ それを聞いてニュージーランドにやって来たのだ。 

私は ニュージーランド大使館から 弁護士・公認会計士・銀行のインターナショナルマネージャー 等 家を買うのに 必要な人達を 全員紹介して貰って・・ ニュージーランドにやって来たのだ・・。

が その頃 私は そんな私的な事まで イミグレの人に言う必要も無い・・と思っていた・・。 ただ 観光に来た・・と言えば すんなり 三ヶ月の滞在許可は普通にもらえるのだ・・。

が! 私と言う人間は そんなに簡単に イミグレを通過できる代物では無いようなのだ・・今を思えば・・。

ホームレス的風貌で その日に泊まる所も無い・・となれば・・ま〜 イミグレに不審に思われても仕方の無い事かもしれない・・。 1980年代は クライストチャーチに日本人がやってくるって事もなかった・・。

今でこそ 日本人はニュージーランドの事はよく知っているが・・あの頃 ニュージーランドと言っても どこか ヨーロッパ? と言われたり・・ ニューギニアの間違いでしょ? とか言われたり・・・ ま〜 ニュージーランドと言う国がどこにあるのか? どこに存在するのか? も 全く知られてなかった時代なのだ。

だから ニュージーランドのイミグレの人が この怪しい女は日本からなにしに? と思ったのは 仕方のない事かもしれないのだ・・・。

イミグレと擦ったもんだ した挙げ句・・ 監禁されそうになったので・・ そ〜〜だ! ニュージーランド大使館で貰った 色んな人達への紹介状を見せれば どうにか私を信用してくれるかも? と見せたら・・

今まで 私を極悪犯人の様な扱いをしていたイミグレのオフサー達は突然 猫なで笑顔に豹変!

あの豹変具合の衝撃さは 今も 拭いきれない程私の脳裏に刻まれている・・・。

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